避難者訴訟の争点 井戸謙一(いど けんいち)

【科学 2017年 3月号 】
避難者訴訟の争点

井戸謙一(いど けんいち)

福島第一原発事故は、未曽有の公害事件である。現在、全国の裁判所で多くの被災者が国や東京電力に対して損害賠償を請求しており、その原告数は1万人を超える。そして、どの裁判でも大きな争点になっているのが「長期低線量被ばくによる健康被害の有無」である。
福島第一原発事故では、被ばくによる確定的な影響は生じなかったとされている。しかし、確率的影響については、深刻な対立がある。もし、国や東京電力が主張するように、年100ミリシーベルト以下の被ばくでは確率的影響が生じないのであれば、区域外避難者(避難指示を受けずに自分の判断で避難をした人たち)は、無意味な行動をしたのであって、そのことを理由に、国や東京電力に損害賠償を請求することはできないことになってしまう。
訴訟においては、原告被災者側がチェルノブイリ原発事故の経験や、各国で報告されている疫学調査結果に基づいて長期低線量被ばくによる健康リスクを主張しているのに対し、被告の国や東京電力は、2011年12月に公表された「低線量被ばくのリスク管理に関するワーキンググループ報告書」やICRP勧告を根拠として、年100ミリシーベルト以下の被ばくによる健康リスクを否定している。
この問題については、医学、放射線防護学、疫学等の専門家が様々な見解を述べていて、それが裁判所に持ち込まれる。専門家の間ですら意見が分かれる問題について、裁判所が見解を示すのは、容易ではないだろう。
しかし私は、この訴訟構造の捉え方に疑問を抱かざるを得ない。区域外避難者の損害賠償請求訴訟における争点は、福島原発事故と区域外避難をしたことの間に、相当因果関係があるか否かである。長期低線量被ばくのリスクについて確定的な見解は存在しない。他方で、子どもたちの健康を守る営みには迅速な判断が迫られ、科学的見解が確立することを待つ時間はない。そして子育てはやり直しがきかない。後に判断の誤りに気付いても、取り返しがつかないのである。
【転載続く】